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冬はスキー(棲息地:太平山オーパス)、乾燥路は自転車で体力維持する親父の記録 食べ物…いやしい系(^_^;) 意外にアート好き、最近は鏝絵(こてえ)と土蔵に野草や花に興味あり
増田「蔵の日」
 11月5日は増田「蔵の日」普段は見ることのできない内蔵10棟を見ることができる。
 いずれかの蔵の入り口で、100円を払い、氏名を記帳して共通見学証と蔵史資料と地図の3点セットを貰って見学することになる。
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 地図の表は白黒ながら、各蔵の見所が印刷されている。
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 地図も分かりやすい。
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 手作り感がたっぷりの共通見学証も手を抜いていない。
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 さらに所々に大きなポスターが貼られており、公開されている蔵の前には白地に青の旗を立てて、見つけやすく見逃さないようになっていた。
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 各蔵には、案内する人や、持ち主の方もいて直接質問をしたり、説明を受ける機会もあった。
 なお、個人の蔵では12時~13時は昼休みで立ち入りできなくなるが、漆蔵資料館・旧勇駒酒造・日の丸醸造などは開かれていて、ちゃんと対応ができていた。開場に繋がる交差点にも案内係の人がいてスムーズ。とても第一回目とは思えない気配りが感じられた。

 つづきを読むで、増田「蔵の日」公開蔵史ガイドの全文を読めます
増田「蔵の日」公開蔵史ガイド

1.【旧勇駒酒造】
 宝暦四年(1754)に初代石田久兵衛が創業した老舗。「宝暦蔵」と呼ばれる古い酒蔵が今も残る。戦時中増田の造り酒屋は勇駒のみであった。平成十五年(2003)に廃業。酒蔵は登録有形文化財。(所有:合資会社羽場こうじ店)
 蔵の構造は、桁行十八間(32.76m)・梁間四間(7.28m)の酒蔵で、三尺に並ぶ六寸角の栗の柱で支えられている。その間に化粧貫が入っている。小屋梁は幅一尺二寸・せい一尺五寸の杉の重ね梁である。

2.【笹原博征家】
 道路挟んで真向かいに住んでいた針金金兵衛家の米蔵で間口3間・奥行5間、梁高14尺で明治中期から後期に建てられたものと思われる。 4寸角で縦横3尺の間隔井桁構造になっている。現在は内、外ともに平成10年に修理して1階は店、2階は商品倉庫として活用している。
 また、隣の蔵は間口2.5間・奥行き3間、2階造りで昭和の初め頃に別荘の内蔵として建てられたもので囲炉裏がきってあった。現在も収納スペースとして活用しています。

3.【日の丸醸造株式会社】
 元禄二年(1698)、最上(山形県)出身の沓沢甚兵衛が創業。蔵名の「日の丸」は秋田藩主佐竹公の定紋「五本骨の扇に日の丸」から命名された、大正時代には一時東北一の醸造高を誇ったが。戦時中いったん酒造を中断した戦後復活した当町唯一の老舗蔵。現在の主力ブランドは「まんさくの花」。
 酒蔵は登録有形文化財。圧巻は明治四十一年(1908)年建築の文庫蔵で、一尺間隔に整然と並ぶアオモリヒバの通し柱(漆塗り)と白漆喰の壁のシンプルな美しさが目を引く。他に元日二尺五寸の重量感あるケヤキの梁(2階)等吟味された材料がふんだんに使用されており、往時の隆盛ぶりが偲ばれる。

4.【堀田 隆家】
 構造:土蔵造亜鉛メッキ銅板葺2階建居宅・床面積1階17.08m2 2階7.08m2
 所在:横手市増田町増田字七日町150番地
 建築年月日・施主等詳細不明
 前の所有者である佐藤清十郎家が、明治22年12月に売買にて取得した記録(謄本甲区)があり、建築年月は明治22年以前と想定される。当堀田家先々代堀田徳治が、明治40年頃醍醐村より当地に転入。現土蔵と店舗を佐藤清十郎家より借用し、小間物卸小売業を開業。主に土蔵の利用は家族、雇い人の居間・寝室等日常の生活空間として利用されていた。
 増田の蔵は規模が大きいこと。高級資材が利用されていること。研き漆喰仕上があること。見かがり部分に艶漆を塗ること等特徴があるが、これと比較し当家の蔵は規模も小さく質素な造りとなっている。

5.【佐藤多三郎家】
 戊辰戦争の際、御用金を献納した旧家。地織りの反物商いを家業としていたが、先々代の当主・三郎は医師を長く務めた。内蔵は、明治35年(1902)頃の建築という。
 桁桁六間(10.92m)・梁間3.5間(6.37m)のこの蔵は、奥に14畳の床の間付きの座敷を配している。柱は五寸角の栗と杉の併用で三尺間隔に配置されている。

6.【松浦千代松家】
 蔵の創建者・松浦千代松は、立志伝中の人物。たばこ商人として大成功をおさめたが、たばこ産業が官営となったために、電気事業を発案し増田水力電気(株)を創立。戦時中まで平鹿・雄勝・仙北地方に送電、増田の名声を大いに高めた。養子孝ハ郎(二代千代松)は、父の意志を受け継ぎ会社の発展に貢献、終戦当時増田町長を務めた。この内蔵は明治後期に一万円で建てたという。
 土蔵の鞘に施された麻の葉模様の組子が美しい。蛇腹四股のこの扉は、左の女戸が大きく、右の男戸が小さい。これは扉を閉めたときに合わせ目が開口の中心となるように作られているためである。黒漆喰でまとめられているが、角の面に細く白漆喰が施され、そのシャープなラインが全体を引き締めている。石段は最大のもので幅一尺八寸・高さ一尺五寸・長さは二間半(4.5m)もある。

7.【佐藤又六家】
 当家は町の中心部に位置しており、母屋は防災のために村からの要請で明治元年に蔵造りで建てられている。間口4間、奥行き12間の土蔵造2階建ての妻入り、町屋を鞘で覆っている。鞘の正面妻壁は化粧梁を重ね、突き出した3本の梁鼻を斗と肘木で飾るなど、特色ある外観を街路に見せている。奥の文庫蔵は間口3間、奥行き7間の土蔵造2階建てである。平成17年2月に国の有形登録文化財に登録された。又六家は江戸時代から続く旧家で商人地主である。明治27年増田銀行(現北都銀行)設立時に九代佐藤又六が発起人の一人で、創業時取締役であった。十代又六は早稲田大学の前身、東京専門学校の2期生であり、学校の創立者大隈重信との卒業写真が残されている。
 大正天皇の即位記念としてつくられた真人公園の造園時に桜の苗木600本を寄贈しており、その功績を讃えた碑が公園にある。
 現当主は十二代目である。

8.【佐藤与五兵衛家】
 「□(傘に与の屋号)」で知られる商人地主。戊辰戦争では二百二十七両の御用金を献納。増田銀行創業時の監査役の一人で、大正時代には百六十町歩余の田畑と二百十人の小作人を有していた。大正六年(1 9 1 7)建築。
 栗の通し柱が三尺に並び、梁を受け、その間にヒバの管柱が一尺間隔に並んでいる。垂木の間隔は一尺と狭く、なおかつ母屋も入る構造は大変強固なものといえる。棟木、母屋共天秤梁で受けている。

9.【漆蔵資料館】
 増田を代表する商人地主・小泉五兵衛の元内蔵。江戸時代より八代続いた同家は、戊辰戦争では増田一の御用金(三百五十両)を納める商家であった。増田銀行(現北都銀行)の初代頭取は当家の出身であり、大正時代には百町歩を超える田畑と百三十人余の小作人を有した。
 大正十年(1921)建築のこの蔵は、現在稲庭干饂飩の「漆蔵資料館」として一般公開されている(所有:有限会社佐藤養助商店)
 蔵の構造は、四寸八分の栗の通し柱が一尺五寸間隔に並んでいる。梁は杉で梁せい一尺・幅六寸、三尺間隔。床は栗の板を使用し、木部は全て漆塗りである。鴨居上の欄間は黒柿の板を使っている。
 桁行七間(12.74m)・梁間四間(7.28m)の二階建てで、階高は一階が十尺一寸、二階が八尺五寸。正面は黒漆喰で、石段には院内石を使用している。土扉下の煙返しの踏み段は、黒の人研仕上げとなっている。入口は妻壁より入る妻入りと呼ばれるもので、当時の道路に対し直角に敷地が長かった街並み上、この方式が主流となっている。

10.【石田モト家】
 明治初期に石田理吉(屋号 金星:商店街木造三階建の建造物所有者)の長女(石田タメノ)が婿養子をもらい、分家(屋号 丸星)として広嶋家から現在の場所を購入した。
 内蔵は、冬期間に建てられたと言われている。その理由として、当時は馬車などで石を運搬していたが、当内蔵は土台に大きな一枚石である院内石(現在の湯沢市院内)を積んでおり、馬車では運搬できない重さと大きさから、冬期間に「そり」を使って運んだと言われている。

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