残った疑問は、土蔵の建設をされた明治時代の交通状況。
秋田県立図書館で、「羽州街道をゆく」藤原優太郎著、「雄物川の河川交通」斎藤實則著、などで調べてみた。
明治38年9月14日、奥羽本線が全線開通した。それに伴い雄物川の河川交通は急速に衰退した。
「羽州街道をゆく」藤原優太郎著 より
一の渡は旧河辺郡船岡村に属する小さな集落で、淀川と小黒川の間の大地に街村がのびている。船岡村は秋田藩の重臣・梅津半右衛門利忠が宇津野の枝垂桜見物に訪れたところといい、船玉神社につづく沿道の桜並木が美しい。
一ノ渡を通る羽州街道は集落の中ほどから雷神社のある坂道を下って小黒川対岸の小高い山を越えるものであった
「雄物川の河川交通」に載っていた大正6年秋田県全図から一部を、「羽州街道をゆく」から境周辺の地図をまとめてみた。協和船岡は河邊郡に属していたとは知らなかった。郡境が川だったのだろうか。「雄物川の河川交通」には「船岡集落はかつて一の渡りとも呼ばれ、羽州街道における唯一の徒渉地点であった」とある。

また、鏝絵の分布の分かっている地名に緑線をつけたが、平尾鳥があるのは意外だった。それほどまでに繁栄していたのだろう。

船着場の分布をみると、雄物川は緩い傾斜で流れているが、支流に入ると傾斜の強い部分もある。境方向へは川口から淀川をさかのぼって、境・船岡・上淀川に船着場があることが分かった。そこから先は陸路を荷車や馬で運んだのだろうか。
「雄物川の河川交通」の II 雄物川流域の自然 4 主要支流河川 の淀川の項には
【 上淀川から上流は船岡川とも呼ばれ,舟岡川とも書かれた。河辺・仙北両郡境に位置する大石岳(1、059m)の南麓に広がる大川前国有林を水源とし朝日又沢・大倉沢・滝ノ又沢・荒木沢・庄内沢・オソ沢などの沢水を集めて西流する。猫の沢・芋台にかけての渓谷の景観が美しい。淀川はさらに蛇行しながら小黒川・荒川を入れ,協和町川口地区で雄物川に注いでいる。合貝付近から河道が逆流するように方向を変えるので,逆合川と呼ばれた。左岸の中心集落境は逆合から訛化した地名といわれる。
淀川上流域は中世の頃から森林資源に恵まれ,木材や薪炭を生産移出した。その船着場が船岡・境であった。一方、荒川上流には荒川鉱山があり.淀川との合流点近くの上淀川の舟着場から銅鉱・木材を積み出した。
船岡集落はかつて一の渡りとも呼ばれ、羽州街道における唯一の徒渉地点であった。船岡の上流,野田集落の近くに船玉神社がある。現在、淀川上流に協和ダムが建設されている。
淀川下流とU字状の雄物川蛇行帯に囲まれた協和町南端郎は旧小種村である。かつて同村の中央に大沼と呼ぱれた沼があり,その面積は凡そ55haで周辺の水田の潅漑用水として利用された.また大沼はエビ・フナ・ジュンサイの宝庫として知られ,秋田方面に出荷された、この大沼も大正14年に干拓が計画され、昭和初期、ここに新田が誕生した。河辺・由利|両郡から19戸の人植者が入った】
船着き場の場所を推定するために Google Map でみてみる。船着き場は川に面していたとしても、河川の氾濫などを考えると、集落は近くで小高い場所にあると考えると、船岡が上一ノ渡に、上淀川が荒川(上荒川・下荒川)に相当すると考えると矛盾がない。現在の上淀川はもっと13号線寄りに位置するのが問題ではある。しかし、上の「雄物川水系河川の傾斜と船着場」を見直すと境-船岡はあるが、上淀川はない、そして荒川とある。上淀川=荒川と考えても間違いではなさそうだ。
これでやっと調べる出発点になった疲労さんの「荒川は荒川鉱山で栄えた村です」が結びついた。
一の渡の渡場跡
一の渡し
「坂本の舟わたし有、 一のわたりと云、街道三渡の水上なり。」『秋田風土記』より
上淀川村
羽州街道-協和路
羽州街道
【徒渉】としょう (1)川などを歩いて渡ること。「黄瀬川を―する也/十和田湖(桂月)」 (2)陸を歩いたり、水を渡ったりすること。あちこちを遍歴すること。跋渉(ばつしよう)。「山河を―する」

雄物川の川口〜境までを見ると確かに曲がりくねっていて「逆合」と言われていた事も納得できる。(河辺郡と仙北郡の境だからと素直に考えてもいいように思うが…)。

【追加】2006.11.26
協和図書館の「協和郷土史」で見つけた「境 上淀川宿場図」

ただ「羽州街道における唯一の徒渉地点」という記述は明らかに誤りで、『秋田風土記』には「(戸島村)坂本の舟わたし有、 一のわたりと云、街道三渡の水上なり。」とあります。
http://zizou.naturum.ne.jp/e140284.html
「上淀川」は上の地図では「淀川」として書かれています。延宝8年(1680年)から羽州街道の宿場町で、隣接する「境」と宿駅の役務(人馬継立など)を十五日交代で勤めていました。これは河辺の和田宿・戸島宿の関係も同様で、江戸時代はこのように小規模の宿場には、宿駅の役務を分散させて、負担を軽減させる手法が取られました。
Harropageさんの紹介されている本文にも「淀川との合流点近くの上淀川の舟着場」とありますので、あえて荒川集落を持ち出さなくても、位置は現在のR341とR13の合流点から北へ向かって、現在の上淀川集落と考えてよろしいかと思います。
http://watchizu.gsi.go.jp/watchizu.aspx?id=59403205&slidex=0&slidey=0
ロードマップやウェブ地図の地名はアテになりません。
考証に際しては出来るだけ「地形図」を用いましょう。
今後の参考にさせていただきます。。。他力本願寺・住職?、疲労
http://zizou.naturum.ne.jp/e140284.html
のリンクでは「秋田風土記」の記載や「「上淀川」は上の地図では「淀川」」の地図にリンクできませんが…。
実は、徒渉という意味がよく分かっていません。船を使わずに歩いて渡れるという意味、他の二の渡り、三の渡りは深くて歩いては渡れなかったのか?と思っていました。でも「一の渡り」には「旅人はすべてこの渡しの舟を利用して川越えするより他に、道はなかった」ともあるので、歩いては渡れなかったことになっています。「雄物川の河川交通」には渡り方の図もあったと記憶しているのですが、先ほど図書館に返してしまい確認できません(^^;)。
一つの疑問として、荒川にはあれほど蔵が残っているのに、上淀川には蔵がない?栄えていたのか?そこで、傾斜と船着場の「荒川」の記載に飛びついてしまいました。
そして、R341とR46に挟まれた上淀川とするには、船着場の地図の位置がかなり東寄りになってしまうのが?
考証には地形図を使う、勉強になります。
自転車で走る、帰ってきて資料を集めて検討、また走りに行って確認→また自転車の魅力が増えてしまいました (^^)/
その昔、協和船岡は河邊郡に属していたとは知ってました。(出身地ですし。。。)
「〜上流は船岡川とも呼ばれ〜」とありますが、船岡地内を流れているのは船岡川だと思ってました。
小学校の校歌にも
「石森山の緑にも 船岡川の流れにも・・・」
とあったし。。。
「徒渉=歩いて渡る」ですね、了解です。ただそうしますと、一ノ渡のような歩いて渡れるような浅いところに、果たして(船岡の)船着き場を設けるのだろうかという疑問もあります。一ノ渡は境とさほど標高が違わないと思われるのに、船岡の船着き場は標高が高いことになっているのも気になります。
下段の地図では、上淀川の船着き場は荒川の南岸に書かれています。上荒川・下荒川ともに荒川の北岸に位置していますね。地図はデフォルメして書いているでしょうし、今と違ってヨソの集落の名をかたるとも思えませんので、あくまでも「上淀川船着き場=上淀川宿」と考えます。
>上淀川には蔵がない?
これも例えば上淀川と境を比べた場合、上淀川の集落には旧家が少なかった印象があります(あの奥田酒造は境ですね)。国道の開削時に破却された、あるいは宿場を焼き尽くす大火があった、いろいろなことが考えられますので、蔵が残っていなくても不思議ではありません。
昭和57年4月に校歌は変わってしまったのでしょうか。
歩いて渡れる所に、「一ノ渡」と名を付ける?
標高差の疑問、上淀川が南岸も気がついていませんでした。最初に引用された文献が間違えていてもそのまま引き継がれていることはよくあることですし、「上淀川船着き場=上淀川宿」なのでしょう。
3つの船着場、「船着場跡」の標識などは設けられていないでしょうね。協和蔵巡りはまだ未完なので、協和公民館・図書館にも寄って資料がないか見てみようと思います。
パズルというか、謎解きというか、遊びとして面白いですね。この歳になって羽州街道を知ることになるとは…(^_^;;;)。
校歌は移転、合併で変わってしまいました。
当時高校生だった私は学校まで結構近い
ということもあり、引越しの手伝いをした記憶
があります。
学校のプール監視のバイトもやりましたね。
変わってしまった校歌も画像でしか検索できませんでした。思い出したいときに、WEBの検索で直ぐにヒットする形(ブログがいいのか分かりません)で、残して置くことも必要かもしれませんね。「〜上流は船岡川とも呼ばれ〜」。
由利町の3校が統合した由利小学校では、HPに3校の校歌が掲載されています。児童にとっては「少し離れた新校舎に通う」感覚かも知れませんが、卒業生にとってはねぇ・・・
http://www.chokai.ne.jp/yuri/about/g_info/yurishougakkou.html
協和の小学校の合併も近いようですが、このような形で残るでしょうか、Zizouさんの記録があるとはいうものの…。ついでに、以前の小学校の校歌など分かる範囲でまとめればいいのでしょうが、そこまでは無理でしょうか。役場勤務の卒業生に期待するしかないでしょうね。
協和小学校は名前が変わるし、当然校歌も変わりますね。
同級生で役場勤務居たかなぁ。。。
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